アメリカで最初に買ったパサデナの家

 

私と家内がアメリカで最初に買ったロス・パサデナの家は、のちのち大変な苦労をすることになりました。
しかしそれを含めて、良い思い出です。

ロスからセントルイスへ

197912月、結婚して丸2年を迎えようとしていた私たちは、私がセント・ルイスの大学院に入ることになったので、住み慣れたロサンジェルスを後にして、知っている人が誰もいないセントルイスへの旅を始めました。ワゴン車に家財道具をすべて積み込んで、ベッドを車の屋根の上に縛りつけ、21日に出発しました。三日で着く予定だったのですが、雪で五日かかりました。着いたのはちょうどクリスマスで、銀行はすべて閉まっています。現金がなくなってしまったので、大学のチャペルに行って神父さんからお金を借りて、その晩はモーテルに泊まりました。私たちはクリスマスに式を挙げましたので、これがわびしい結婚2周年になりました。

 早速アパートを探して、大学のすぐ近くに住むことになりました。敷金と最初の月と最後の月の家賃を払わなければならなかったのですが、$800の全財産がなくなってしまいました。銀行で働いていた友人から引越し前にもらった$50の国債を現金に換えようと思って銀行に行ったところ、買ったばかりの国債なので、すぐには現金化できないと言われてしまいました。

泣きっ面に蜂

 家内はロサンジェルスで税関のブローカーの仕事をしていましたので、内陸のセントルイスにはほとんどない業種ですが、電話帳で片っ端から調べて、全部当たってみました。ダウンタウンにあった会社が採用試験を受けに来いと言うので、車で行きました。もうちょっとというところでエンストを起こしてしまい、家内はそこから歩いて行きました。私は、道の真ん中に停めておくわけにはいかないので、押して道端に停めようとしました。上り坂でしたので、車の外に出て、左手でハンドルを切りながら(アメ車ですので、運転席は左側)、右手で車を後ろに押したのです。大きなワゴン車でしたが、坂道なので、簡単に動かせました。

 しかし、一つ計算に入れていないことがありました。ワゴン車は、ボックスの形をしていて、前輪がドアのすぐ下にあります。動かし始めたところで、左前輪が私の左足をひいていきました。ボキボキボキという音が聞こえました。車はそのまま歩道の縁石に当たって止まりました。私はびっこを引きながら、家内が試験を受けていた会社まで歩いて行きました。家内は試験の最中でしたが、部屋に入って行って、今、自分で自分の車を運転していて自分をひいてしまったと告げると、一言「オー・ノー」と言って、それ以外は何と言っていいか分からない様子でした。試験が終わってから病院に行きました。幸い骨は折れていませんでしたが、ひどい捻挫で、治療費も払わなければいけなくなったし、泣きっ面に蜂でした。

さらなる苦難

 家内は採用されましたが、仕事が始まるのは1月の2週目からということになりました。1週目から働くと、その年の暦年全部働くことになり、一週間の有給休暇を上げなくてはいけなくなるので、2週目からになったのです。というわけで最初の給料が一週間分減りました。当時、バスは片道25セントでした。私は、1976年の米国建国二百年記念の25セント硬貨を集めていたので、それを毎日2枚ずつ使いながら、家内は仕事に行ったのです。

 二人でスーパーに買い物に行って、お米とか、とにかくおなかの太りそうなものを買いました。チキンの入っていないチキンライスとか、チーズの入っていないチーズサンドイッチなどを考案したのもこの頃です。アパートの向かいに救世軍(キリスト教の慈善団体)があって、ホームレスのために炊き出しをしていましたので、いざとなったらそこでお世話になろうと思っていました。しかし、そんなことではどうしようもできない思いがけない事態が起こったのです。

 ロス・パサデナの家

ところで、2年前、家内が私と結婚したとき、家内は$5,000の貯金をしていました。(神に誓って言いますが、$5,000目当てに結婚したわけではありません。)式は日本で挙げたのですが、かなりのお祝いをもらいました。その後間もなく、母が退職し、退職金をもらったので、私の学費をまとめて送ってくれました。と言うわけで、かなりの現金ができたので、私たちは家を買うことにしました。

 当時、私たちは、ロサンジェルス郊外のパサデナという町に住んでいました。この町は、米国のほかの町にもよく見られることですが、黒人街と白人街が、東西に分かれていました。町の中心部を南北に走るロスロブレス・アベニューとノース・レイク・アベニュー周辺が、その境目だったのですが、市がそこに、当時としては低金利の8.75のローンを出していたのです。通常、近所に黒人が引っ越してくると、家の値段が下がるので、そうなる前に郊外に買い替えるということが多いのですが、このローンのおかげで、白人が黒人街に引っ越してくるという、珍しい現象が起きていました。

 私たちも、このローンを使って家を買いました。$57,5003LDK+書斎の、140平米ほどの家でしたが、大きな水槽を置いたら、床が少し傾いているのが分かるような物件でした。それでも、Truliaという不動産サイトで調べたところ、今の価値は80万ドル以上です。1911年築で、大正元年に建てられた物件ですが、アメリカではそんな古い家でも値段は上がりますし、Truliaに載っている写真も、庭や塗装の色以外は当時のままです。

家を売ってローンを出す

 ところが、買って1年後にセントルイスに引っ越すことになり、売らなければならなくなったのです。値段がどんどん上がっている時期でしたので、家は$69,000で売ることができました。たった1年で価値が20上がったのです。購入したときの不動産業者に売ってもらったのですが、売るころには金利が20%近くまで上がっていましたので、業者に勧められて、自分でローンを出すことにしました。

 家を売るときに自分がローンを出すなどということは、日本では聞いたことがないかもしれません。仮にあったとしても、それは売り手がローンを完済している、あるいは現金で購入していた場合に限られると思うでしょう。ところが、業者の話では、自分のローンはそのままにしておいて、それより大きな額のローンを買い手に12%の利子で貸し付け、二つのローンの支払いの差額が自分の収益になるというのです。金利がどんどん上がっている時期でしたので、そのようにして買い手のローンの負担を下げ、同時に自分も儲かるという売り手が多かったのでしょう。

不動産業者に騙されていた・・

 というわけで、言われるがままに売ってセントルイスに引っ越したのですが、お金がなくて苦労している真っ最中、銀行から手紙が届きました。私たちがもらったローンは、売るときに完済しなければならなくなっており、ローンをそのままにしておくことはできないというのです。私は早速不動産業者に連絡しました。ところが、彼らはどうやら夜逃げをしたようです。私たち以外にも、同じような方法でいくつかの家を売り、被害者に訴えられそうになったのかもしれません。当時は良く行われていたことなので、このローンにそう言う条項があることを知らなかったのでしょう。

 というわけで、私たちは5万ドル近いローンをすぐに完済しなければならなくなりました。セントルイスの知り合いに弁護士さんがいて、カリフォルニア州の弁護士を雇うように勧められましたが、そんなお金もありません。いろいろ考えましたが、金利20でローンを借り換えることもできませんので、牧師から、日本の親に頼んで日本でローンを借りてもらったらどうかと言われ、それ以外に方法はないだろうということになりました。実家の家のローンはすでに完済されていましたので、両親は、家を抵当に入れて、ローンを借りる手続きを始めてくれました。

 家内が質に入れた真珠

 そんなある日、家内は、私に黙って、持っていた数少ない宝石類を全部質屋に売ってしまったのです。数十ドルにしかなりませんでしたし、なぜ相談しなかったんだと、後で喧嘩になりました。売ったものの中で、一番気に入っていたのが、小粒の真珠のネックレスでした。当時、痩せていた家内にお似合いでした。結婚のお祝いにもらったものでした。

 ところで、10年ほど前のことになるのですが、私は、ある日本の教会がやっている人道支援の通訳として、インドのハイデラバードに行きました。ここは真珠の産地です。内陸ですので、淡水真珠だと思います。地元の人が、ある日、買い物に連れて行ってくれました。特に買いたいものがあったわけではないのですが、せっかく連れて行ってくれるというのに何も買わないわけにもいかないので、いくつかお土産を買いました。連れて行ってくれた人が値段を交渉してくれたので、地元の人の値段で安く買うことができました。

 行った店に宝石類が少々あったのですが、私は、セントルイスに住んでいた時に家内が質屋に売ってしまったものに似た真珠のネックレスを探しました。特に似たものはありませんでしたが、小粒のものを一つ買いました。家内が何十年も前に引き取ってもらったときの値段と同じくらいの安値でびっくりしましたが、家内は高価なものを欲しがるような人ではないので、それは問題ありませんでした。

 セントルイスの苦労は、今となっては昔懐かしい思い出です。二人で一緒に苦労するということはいいことです。それに負けてしまえば夫婦仲が壊れてしまいますが、二人で乗り切れば、絆が強くなります。

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