IREM総会で訪れたサンフランシスコ
今年のIREM(全米不動産管理協会)総会は、サンフランシスコで行われました。基調講演の講師は、セントルイス在住のジョン・オリーリー氏です。私は、大学院のころセントルイスに5年住み、長男もセントルイスで生まれましたので、親しみを感じました。特に、長男は、2歳でセントルイスを離れてから、今年の夏休みに初めて生まれ故郷を訪れることができましたので、一緒に行けなかった私も、懐かしい気持ちがしました。
初参加者のための朝食会。今年は1000人近くのメンバーが参加し、過去最高に。
業者のブースを訪れた日本人メンバー
基調講演の講師:ジョン・オリーリー氏
ジョンは9歳の時に火遊びをしていて全身やけどし、体の80%が第三度熱傷を負いました。絶望的だと思われたのですが、助かって、今は有名な講演者になっています。彼は、野球少年だったそうですが、事故の翌朝、体中がはれ上がって目も開けられない状態だった時に、セントルイス・カーディナルズのアナウンサーとして全国的に有名だったジャック・バック氏が病院まで来てくれて、励ましてくれたそうです。私も当時はテレビがなくて、いつもラジオで彼の声を聴いていました。アナウンサーですが、野球の殿堂入りをしています。
消防署に通報してくれた近所のおばさんが友人に電話をし、男の子が大やけどを負って命が危ないので祈ってあげるように頼んだそうですが、その友達がまたその友だちに電話し、その友達がまたその友達に電話し、こうして電話を受けた4人目の友だちがそのお父さんに話し、お父さんがその晩バック氏に会ったときに、ジョンのことを話したのだそうです。彼は、退院するまでの5か月間、毎日のようにお見舞いに来てくれました。
退院後、バック氏は、当時有名だったカーディナルズの遊撃手、オジー・スミス選手のサイン入りのボールを送ってくれたそうです。私もよく覚えていますが、オズの魔法使いと呼ばれていた守備の良い選手で、今は殿堂入りしています。カードが添えてあり、お礼の手紙を送ってくれたら、もう一つサイン入りのボールを送ると書いてありました。しかし、ジョンは、やけどで指を失い、文字が書けなかったのです。ご両親は、何とか鉛筆を持たせて書かせようとしましたが、文字が書けるようになったら学校に行かなければならなくなると思ったジョンは、ずっと拒否していたのです。
バック氏は、そのことを知って礼状を送るように言ったのです。この狙いは的中し、ジョンは礼状を書き送って、別の選手のサイン入りのボールをもらうことができました。これが何度も続き、60個ものボールを集めたそうです。ジョンは学校に通い始め、大学の卒業式には、ステージ4の肺がんで病んでいたバック氏も来てくれました。
ジョン・オリーリー氏
IREM会長:シェリル・グレイ氏が作った基金
基調講演の司会をしたのは、その晩新会長に就任したシェリル・グレイさんで、最後の挨拶の時には、涙を隠せませんでした。彼女は、6月のIREMジャパンの総会に来てくれましたが、最終日に、結腸癌だった35歳の娘さんの容態が急変しました。予定を早めて帰国しましたが、娘さんは助からなかったのです。英語で、Why me?という表現がありますが、通常、「なぜ自分がこんな目に」という意味です。ジョンさんは、「なぜ自分はこんなに幸福なのか」という意味に変えようという話をしましたが、シェリルさんはその話を聞きながら、娘さんのことを考えていたのでしょう。
就任式で、彼女は、娘さんがグリーン・ビルを普及させる夢をもっていたことを話し、IREMがそのために貢献できるよう、娘さんを記念する基金を作って、5万ドルの寄付をすると発表しました。多くの方々が賛同し、その場でたくさんの寄付が集まりました。
就任式の様子
基金パーティーの様子
セントルイス郊外の少年:ジョン君の映画
もう一人、セントルイスのジョン君との出会いがありました。私は飛行機に乗る時は寝ることが多いのですが、今回は、珍しくBreakthrough(突破口)という映画を見ました。実話に基づいた映画で、セントルイス郊外の14歳の少年の話です。彼のことは、ニュースで見たことがありましたので、興味を持ったのですが、ネットで調べたことも併せて、書きたいと思います。
凍ったセントルイス湖の上で遊んでいた彼は、氷が割れて落ちてしまい、駆け付けた消防士たちは、彼を見つけることができませんでした。消防士のトミーさんは、もう溺れてから15分もたっていたので、諦めかけていたのですが、誰かに「左に戻れ」と言われてもう一度探し、ジョン君を見つけることができました。後で分かったのですが、現場にいた人の中で、実際にトミーさんにそう言った人はいなかったそうです。
すぐに病院に運ばれ、27分間、心肺機能蘇生が施されましたが、事故から1時間近く経っており、ジョン君のクラスメートのお父さんだった担当医は、お母さんを病室に呼んで亡くなったことを告げ、死亡時刻を記録しようとしました。お母さんはその現実を受け入れることができず、息子の足を掴んで祈りました。その瞬間、心拍が戻ったのです。彼は、ヘリコプターでセントルイス市内の小児科の病院に運ばれました。そこには、水難事故の専門医がいたのです。
しかし、ジョン君は酸血症で、生きるためには最低6.8必要だとされるpH(水素指数)が6.6しかありませんでした。それでも、駆け付けて祈ってくれた牧師さんが、彼の好きなマイケル・ジョーダンとレブロン・ジェームスのことを聞くと、何も言えない彼は、牧師の手を握り締めて答えてくれたのです。専門医から、仮に助かったとしても植物状態だと言われていたジョン君は、2週間後、元気に退院しました。今は、牧師になる勉強をしているそうです。
地元ニュースでインタビューされているジョン君
奇跡の記録
通常、モーティベーショナル・スピーカーは、いかに自分が努力したかという話をすることが多いのですが、オリーリー氏の場合、いかに多くの人が自分を助けてくれたかという話でした。溺れたジョン君も、自分にできることは何もありませんでした。最後に、ジョン君のクラスメートのお父さんであったスータラー医師が事故の晩残した記録を見つけましたので、訳しておきます。
「私は、自分の科学的装備一式をすべて使って治療介入を試みたが、成功の兆しは皆無だった。この世の全医療資源がこの少年のために使われたが、唯一の兆候は、若い命が我々の目前で消えていくという冷たい現実だけであった。
しかし、ジョンの母親が頼りにしていたのは、現代医療の介入ではなかった。…ジョンの母が神に祈るや否や、モニターはリズムよく打ち始め、股間と頸動脈で鼓動を感じることができた…。
私には、ジョン・スミスが、氷の下に落ちる前と同じ状態に戻れるかどうかは分からない。しかし、神に我々の想像以上のことができるということは知っている。ほんの数日であったとしても、神は我々に贈物をくださった。私は、奇蹟を目撃する特権に与った。
私は、母親に、息子さんがもうこの世にいないという悲しい知らせを告げる準備をしていた。彼女の神への信仰は、私より強かった。彼女は神を呼び求め、神は彼を生き返らせた。…聖霊があの部屋に来られ、少年の心臓を再起動させたのだ。」