イースターのテロ事件

イースターに起きたスリランカの教会爆破事件


 私はボランティアではありますが牧師をしていますので、少なくともクリスマスとイースターくらいは何か皆さんの心に触れるようなことを書きたいと思っています。今年はコロナで話題が持ちきりですが、もう嫌気がさしている方も多いと思うので、話題を変えましょう。

去年のイースターの朝、スリランカで三つのホテルと三つの教会が爆破されたことを、皆さんまだ覚えていらっしゃるでしょうか。三つの教会の中の一つは、バティカロア・シオン教会と呼ばれ、私と同じ教団ではありませんが、近い教派の教会でした。スリランカに何度も行ったことがあり、私の教団の元スリランカ・ディレクターだった人をよく知っているインドの宣教師から、又聞きではありますが、爆破されたときの様子を聞きましたので、ネットで調べたことと併せて、このブログを書いています。

「殺されてもキリストを信じますか?」

 イスラム過激派のテロリストは、教会に入ろうとしたとき、疑われて止められてしまい、入口の前で自爆したそうです。そこには、日曜学校が終わって、礼拝が始まるのを待っていた子供たちが何十人もいました。もちろんテロリストは、多くの子供たちが周りにいたことは分かっていたはずです。

子供たちは、その日の日曜学校で、先生から、「殺されてもキリストを信じるという人は手を上げてください」と聞かれたそうです。幼い純粋な子供たちですので、全員が手を上げたそうですが、その約20分後、その中の22人が本当に殺されてしまったのです。子供にする質問にしてはちょっと過激ではないかと感じる人もいるかもしれません。しかし、スリランカの実情を知っていれば、これは十分に理解できる質問だということが分かるでしょう。

キリスト教徒であることが理由で殺害されることも

 先述した私の教団の元スリランカ・ディレクターは、殺害の脅しを受けていたので、身を隠すために、25年間に19も引っ越したそうです。ある時、テロリストが、誤って自宅の隣の家を襲撃し、隣人を殺してしまったのです。彼は、自分だけでなく周りの人にも危険が及ぶと判断して、教団本部のアメリカに移住しました。私もその少し前に彼の家に行ったことがありますが、そんなことになろうとは、夢にも思っていませんでした。

このような環境の中で生活をしていますので、キリスト教徒であることが理由で殺されるかもしれない、という覚悟が必要となるわけです。ここで、ちょっと皆さんが驚くかもしれない話をしたいと思います。彼を脅迫し続け、隣人を殺してしまったテロリストのグループは、イスラム過激派ではなく、仏教徒なのです。それも、気の狂った単独犯ではなく、ちゃんとした寺院の僧侶とその手下だったのです。

ちなみに、お隣のインドでは、ヒンズー教徒が、罰せられないことを利用して、ダリット(一番下のカストにも入れない、人間扱いされない人たち)のクリスチャンを毎日のように殺しているそうです。先述したインドの宣教師の団体には、690のダリット教会があり、月一つの割合で迫害によって教会が閉鎖され、毎年1030の信徒さんが殺されているそうです。

「寛容」の本当の意味


 最近、寛容が大切だということがよく言われます。これは、英語のtoleranceの訳語だと思います。しかし、日本語の「寛容」では、toleranceのニュアンスがよくわかりませんToleranceと言うのは、ただ寛大に受容するということではなく、相手の考えが自分と違う場合でも受け入れるという意味があるのです。つまり、主義主張の相違がこの言葉の前提となっているのです。

宗教間でこのような問題が発生するのを見て、多くの日本人は、一つの宗教でなければいけないと信じることは間違っていると考えるかもしれません。しかし、これは寛容ではないと思います。確かに、何を信じてもいいと思っているような人なら、こんな過激なことはしないでしょう。しかし、イスラム教であろうと、ヒンズー教であろうと、仏教であろうと、キリスト教であろうと、どの宗教でもよいと信じるようになれば、それは、もはや別の宗教です。そもそも、何を信じても良いなどということがあり得るでしょうか。本当の寛容とは、「あなたの考えや宗教には反対するが、あなたは受け入れる」というものでなければなりません。

マヘサン牧師の声明

爆破が起きたとき、他の教団の教会に招かれていてシオン教会にいなかったマヘサン牧師は、このような声明を出しています。

「私たちは傷つき、憤っています。しかし、私は、バティカロア・シオン教会のすべての会員と影響を受けた家族の牧師として、自爆テロリストとそのテロリストを送ったグループに言います。私たちは皆さんを愛しており、皆さんを赦します。」